月刊グラン10月号のご紹介[相馬勇紀選手インタビュー]

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夢をかなえた五輪出場
大切な時間を過ごせた

新型コロナウイルス感染症の影響で、1年遅れで開催された東京五輪2020。サッカー男子日本代表は、3位決定戦でメキシコに敗れ、53年ぶりのメダルを獲得することはできなかった。それでも"史上最強"と称されたチームは、予選リーグを全勝で突破し、準優勝したスペインを最後まで追い詰めるなど、その実力をいかんなく発揮した。
そのチームの中で相馬勇紀は全6試合に出場。攻撃の重要なオプションとして、フランス戦ではアシストを決めるなど結果を残した。

―目標としていた五輪出場をかなえましたが、全試合が終わった今の感想は?

 やっぱりメダルを獲得したかったので、そういう面ではすごく残念でした。でも本当に自分の人生において大切な時間を過ごすことができましたし、サッカーキャリアの中でも大きな出来事だったと思います。世界の強豪を相手にして『すごく成長できているな』と実感しながらプレーできましたし、『もっともっと成長したい』と思えたので、本当にいい大会になりました。

―想像と現実では何か違いはありましたか?

 あまり想像はしていなかったですけど、五輪の前にホンジュラス代表やスペイン代表と強化試合ができたので、そこである程度、基準をつくることができました。だから本大会でそこまで驚くことはなかったですね。

―強化試合のホンジュラス戦は、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)でタイから帰国してすぐの試合でした。タイでは生活面でも大変だったそうですが、疲労もあったのでは?

 そうですね。でも途中出場(80分)だったので、それほどではなかったですよ。タイでは、自分の人生の中でも一番と言っていいくらいの厳しい生活でした。でも、そのストレスの中でチームが勝てた(5勝1分)のは良かったと思いますし、タイトヨタさんをはじめ、多くのサポートをいただいたので、乗り切ることができました。

―ACLから五輪への切り替えは?

 特に意識はしていなかったですね。オリンピックの舞台に立つ自分は、ACLで6試合戦い抜いた自分でもあると思っていたので、変に切り替えるというよりも、ACLで得た経験とか成長した自分をそのままぶつけようと思いました。ACLも外国のチームとの対戦で、国内の選手のプレースタイルとは違ったので、逆にいい形でオリンピックに臨めたのかなって思います。

―自分のスタイルを崩さずに五輪に挑もうという感じですね。

 やっぱり、普段やっていることしかできないですし、普段自分ができているプレーは、世界でも通用すると思ってやっていたというか、通用しないと勝てないと思っていたから、そこをやり続けたし、挑戦したという感じです。

爆発的なスピードを武器にJリーグでも高い評価を受ける相馬。東京の三菱養和SCに所属していた高校2年生の時に東京五輪2020の開催が決まる。「地元で行われる五輪を目指さない理由はない」と五輪出場を目標に設定すると、翌年の日本クラブユース選手権で日本一を獲得した。相馬はそれまで世代別の日本代表に選ばれたことはなかったが、この全国制覇が自信につながり、進学した早稲田大ア式サッカー部で1年生から頭角を現すと、4年間で2度の関東大学リーグ優勝を経験。4年次にはグランパスの練習に参加し、翌年からの入団内定を受けると、特別指定選手となりリーグ戦に出場。これが夢舞台へのターニングポイントになった。

―高校2年生から五輪出場を目標にしてきて、あきらめかけたことはありましたか?

 ありました。単純に『世代別の代表の中に自分は入れるのかな』と思った時期もありましたし、特に大学2年から3年にかけての時期は、グロインペインというけがを抱えながらサッカーをしていたので、オリンピック出場というよりも『そもそもプロサッカー選手を目指せるのか』と悩んだこともあったので、挫折しそうな時はありましたね。

―それを乗り越えられた理由は?

 やっぱり大学の仲間や両親が常に支えてくれたのが大きかったと思います。けがに関して言えば、大学4年の時に有田(才一郎)先生がフィジオセラピストとしてチームに就いてくれて、その先生が、出会ってすぐに僕のけがを治してくれたんですよ。その後、体を強く大きく、Jリーグで戦える体をつくってくれたので、それは大きかったのかなと思います。

―3年生の終わりというか、4年生になってすぐにグランパスの練習に参加していたと思いますが。

 グロインペインは3年生のリーグ戦が終わるまでずっと痛みがありました。だから4年生になる年の1月が新チームの始動なんですけど、その時に相談したらすぐに治っちゃったっていう感じです。2年、3年の時は練習もやりたくなかったし、試合というかサッカー自体がストレスでした。それでもサッカーは好きだったし、でも痛すぎて、あの頃はすごくもがいていましたね。

―有田先生に助けてもらって、再びサッカーをする楽しさが戻ってきたという感じですか?

 そうですね。僕はその経験があるので、痛みなくプレーできるという幸せを今でも忘れていないですし、本当にプレーできること自体が幸せだなと感じています。

―実際に東京五輪に出られるなと手応えを感じたのは、初めて世代別代表に選ばれてベストイレブンにもなった19年のトゥーロン国際大会ですか?

 そうですね。でも最初に手応えを感じたのは、その前の特別指定でJリーグの試合に出て4アシストをした時ですかね。今だったら世界で活躍する同年代の選手がたくさんいるので、Jリーグで活躍しても『なんだ』と言われるかもしれませんが、日本で活躍していたら代表に呼ばざるを得ないという環境をつくれると思ってプレーしていました。

―東京五輪は当初の予定より1年延期されましたが、何か影響はありましたか?

 今考えると、延期があったからつかめたと思います。昨年でも選ばれていたかもしれないですけど、『あのまま大会に臨んでいたらどうだったのかな』と思うところはあります。昨年、ちょっと苦しんだ経験があって、今年もいろいろことを経験して、自分が成長できたことが良かったと思います。


続きは『Grun』2021年10月号をぜひご覧ください。

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相馬勇紀

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