楢崎正剛選手 現役引退 記者会見の模様

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1月11日(金)、名古屋市西区のトヨタ産業技術記念館にて楢崎正剛選手現役引退記者会見を行いました。


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こんにちは、名古屋グランパスの楢崎正剛です。本日はお忙しい中、僕のためにお集まりいただきありがとうございます。

私、楢崎正剛は昨シーズンをもって選手生活を終えることになりました。その報告と、特にファン・サポーターの皆さん、今日もお集まりいただいたメディアの皆さん、多くの関係者の皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思い、記者会見をさせていただきます。本日はよろしくお願いします。

─楢さん、本当にお疲れ様でした。引退の発表から三日が経ちましたが、いまの気持ちをお聞かせください。

引退を決めてから発表まで、いろんな方に報告しましたが、全員にはできず親しい方にしかできなかったのですが、伝えている時はサッカーをやめるということくらいしか実感がなかったのですが、発表直後からいろんな方、報告できていなかった方から多くのメッセージをいただいたり、ニュースに僕の名前が出ているのを目にしてから実感が湧いてきました。「もうやめちゃうんだ」と他人事のようになりますが、そういう気持ちになりました。

─去年の12月1日、瑞穂での最終戦でJ1残留を決めました。それから1ヶ月あまり、楢崎さんの去就が注目されるなかで、引退を決めた経緯、いつごろ最終的に引退を決断されたのでしょうか?

正直に言いますと昨シーズンが始まる前に、最後のシーズンだと思って臨みました。考えは変わるかもしれませんが、そういうつもりでシーズンに入りました。それでシーズンが終わり、やりきったという気持ちがあるのかどうか、なんとなく自分の中で判断しかねる部分がありまして、シーズン終わってからも少し考えました。幸い、こんな歳の自分でもオファーをいただいたり、そういう話を聞きながら時間を過ごしているうちに、自分の気持ち、モチベーションもぐっと上がってくるのではないかと思っていましたが、それが感じられなかったということが一つあります。そういう状況でオファーを受けるのも失礼だと思いましたし、気持ちが切れたら続けるものではないと最初から思っていました。年末くらいに、こういう決断をしました。

─引退発表後、一緒に闘った選手、後輩たちから「まだまだやれる」という声も届いていたかと思います。楢崎さん自身も、まだできるという自負もあったとは思いますが、それでも決断した一番の要因はどこにあったのでしょうか?

細かく言えばいろんなことがありますが、一年間練習、グラウンドでプレーしてきて自分のなかで怪我のこともあり、全てが100%ではないなという感覚を常に持ちながらやってしまっていました。そんな器用な方ではありませんし、常に100%でという気持ちで試合もトレーニングも臨んできました。それが感覚的にしっくりこなくなったということが、決め手というか、そういう気持ちになった一つの判断材料だったと思います。

─ここ二年間、J2へ降格し、一年でJ1に復帰、その度に楢崎選手の去就も注目されながら現役続行しました。今回、過去二年と違う部分はあったのでしょうか?

J2に降格した二年前は、責任もありました。自分がまず、降格した中で引っ張っていかなければいけないという自覚がありましたし、辞めている場合じゃないという気持ちがありました。一緒に闘っていた選手で、そういう機会を与えられずチームを去ることとなった選手も多く、いろんな状況を含めやらなければいけない。去年も、(一昨年に)J2を戦った終盤は試合に出られなかったこともあり悩みましたが、J2に落ちた時に、もう一度J1で戦うという目標があったので、ピッチにまた立ちたいという大きな夢もありました。それに向け闘わなければいけない、それは一つのチャレンジでした。今回、やめるという決心がついた感覚と過去の二年の感覚は、全然違うものでした。

─引退をまず家族に話されたと思いますが、ご家族の反応はどのようなものだったのでしょうか?

家族も、僕の決断に委ねるというか、あまりサッカーのことや僕のことについて、ああだこうだ言わない妻でもありますし、子どもでもあります。そういうスタンスでこれまでもずっといてくれました。でも、いざやめると伝えた時は本音が出たのか「え?やめるの?」という感じはありました。でも、最終的には自分の決めたことを尊重してくれましたし、僕がそう決めたら覆らないと思っていたと思います。そのあたりは、いろんな言葉が必要ではありませんでした。

─昨シーズン限りで盟友、川口能活さん、小笠原満男さん。そして同じ日に中澤佑二さんが引退を発表しました。この盟友達と同じ時にピッチに別れを告げるということを、どのように感じているのでしょうか?

同世代の選手達なので、もちろんやめるタイミングも近い時期になるのは必然だと思います。川口選手には引退セレモニーにサプライズで出させていただき「まだまだ続けてくれよ」という言葉をいただき、その時はもごもごしてしまいましたが、その言葉も自分の心に響き、悩んだ材料でもありました。その期待に応えられなかったという気持ちがあります。発表が同じになった中澤選手は、僕への印象として、シドニーオリンピックで(中澤選手と)衝突し血を流しながら闘ったことで応援してくれる方が増えたということもよく聞きますが、そういう選手と、引退発表でまたバッティングするのか(笑)、というギャグみたいなこととなりました。

─その中澤さんが「いまからでも引退を撤回してくれと」と自身のブログに書かれていましたが?

それは、そっくりそのまま返したいですね(笑)。

─プロ24年のキャリアを振り返らせていただきたいと思います。楢崎さんが奈良育英高校を卒業し、横浜フリューゲルスへと加入したのは1995年、まだJリーグが開幕して三年目というシーズンでした。最初にプロの世界を経験して感じたこと、苦労したことなどあれば、新人時代を思い出しお聞かせください。

新人でフリューゲルスに加入した時は、はっきり言って無我夢中で周りが何も見えていませんでしたし、自分がうまくなりたい、試合に出たい、テレビで見ていたようなスター選手がいましたし、早くその選手と同じステージに立ちたい。幸い一年目から試合に出るチャンスをもらいましたが、まだまだおんぶに抱っこという状態でしたし、早く自分が誰よりも信頼を得てピッチで一番輝く選手になりたい、そういう気持ちでいっぱいでした。あまり苦労したという感覚より、常に新しいものを吸収しよう、早くプロの水に慣れよう、早くこのチームで貢献しようという気持ちしかありませんでした。

─一年目の後半からクラブでポジションを得て、その後、日本代表にも選出、そしてフランスワールドカップを迎えました。順調なステップと私たちには見えていたのですが、ご自身では、もがいていた時期もあったのでしょうか?

順調かどうかは自分の中では、キャリアを終えるまで評価できないと常に思っていました。自分がどうやったらうまくなるか、どうやったら一番になるか、そんなことばっかり考えていました。でも、古すぎて忘れましたね(笑)。

─フランスでのワールドカップがあった1998年から99年にかけては、おそらく今でも楢崎さんの人生の中で大きすぎる転機となった、横浜フリューゲルスの消滅、そして名古屋グランパスへの加入という出来事がありました。この一連の流れを当時感じていたこと、あるいは今だから感じることとして、どのようにお考えでしょうか?

サッカー界にとっては事件、一番あってはいけない出来事だったと思います。当時は、決まったことを知らされ、チームがなくなる、これからどうするんだということしかありませんでした。もちろん、撤回に向けいろんな活動をしましたが、選手は無力なんだということを感じました。僕たちの手の届かないところで、いろんなことが決められるという感じでした。確かにいろんな方に支えられ僕たちは成り立っていますが、いろんなことにより、それが壊されることもあるんだと知りました。他の場所でも、そういうことは二度とあってほしくないですし、絶対に忘れてはいけない出来事だったと思います。

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─そして名古屋グランパスに加入し今日に至るまで20年の月日が流れました。一つをあげるのは難しいと思いますが、この20年で印象に残っていることがあれば、お聞かせください。

はっきり言って、うまくいかなかった事の方が多いですし、万年中位や下位争いなど、目立った成績をあげられていないということを常に思っていました。でも、そういうなかでリーグのチャンピオンになったことは、その思いを全て吹き飛ばすような達成感がありましたし、クラブ全体、関係者が喜んでいる姿を見られたことは一番の思い出です。

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─2010年は、いまでもJリーグでは唯一の、ゴールキーパーとしてリーグMVPを獲得する活躍でした。もう一度振り返ってみると、2010年というシーズン、どのようなチームだったのでしょうか?

ストイコビッチ監督が三年目で、監督の求めるものが一番浸透している時期でしたし、そのうえで選手も的確に補強が入りバランスよくチーム編成が行われました。クラブも一丸となり、プレーに専念できる環境だったと思います。

─あのシーズンは、チームが打ったシュートより打たれたシュートの方が多かったように記憶しています。その中で、楢崎選手がたくさん止めましたね?

屈強なディフェンダーもいましたし、打たれても僕が止めればいいと、自分ではそうは思っていなかったのですが監督がそう言っていましたので。ということは自分の仕事はそれなんだとシンプルに、頭の中がクリアな状態でプレーできていたと思います。どれだけ自分がチームを助けられたかといえばわかりませんが、個人の賞をいただけるほどの活躍ができたかと言えば、自分の前に立っている選手、チームのおかげだったと思います。

─24年の現役生活を続けるうえで、楢崎さんがもっとも大切にしていたことは何だったのでしょうか?

大事にしているのは、毎日のトレーニング。全て自信を持って、どれだけ試合に臨めるか、それは日々のトレーニングによるものです。常に、自分は理想に程遠いと思って取り組んでいましたし、どれだけ歳を重ねてもまだまだ。理想に近づけないまま終わってしまったと思いますが、そういう気持ちがずっとあったから続けられたのだと思います。

─クラブ、そして日本代表で数々の試合を闘いましたが、それぞれで、楢崎さん印象に残っている試合があれば、教えてください。

この質問は聞かれるだろうと考えて思い返していたのですが、いろいろとありすぎて絞れませんでした。もちろん、Jリーグでのデビュー戦だったり、一番痺れる試合としては二年目の横浜フリューゲルスと鹿島アントラーズの試合、横浜マリノスと日産スタジアムのこけら落としとなった試合、代表での初出場の試合、グランパスで優勝を決めた試合や降格が決まった試合、いっぱいありすぎて絞れません。でも、ワールドカップで日本の初勝利をつかんだロシア戦は印象深いです。

─ゴールキーパーというポジションについても聞かせていただきます。サッカーという競技において、ゴールキーパーとはどういう存在だと楢崎さんはお考えでしょうか?

一つをあげるのは難しいですが、強くなければいけない。練習もハードですし、試合で起こることは辛い事の方が多く、人間的にも選手としてもボスでいなければいけない。それでいて、何かだけに特化して強いのではなく、バランスも必要。誰よりも練習しなければいけない、そのような日々が毎日繰り返され、いろんな面で強くなければいけない。僕がもっと強ければ、もっと良い選手になれたかもしれない、それ位のポジションだと思っています。

─技術面でのこだわりはあったのでしょうか?

技術面で言えば、確実なものを確実にセーブする。取れないボールを取ろうとするより、取れるボールを確実に抑える。それを考えプレーしていました。

─川口能活さんとは代表でライバルとして競い、そしてクラブでも数多く対戦しました。川口さんは楢崎さんのことを「特別な存在」と公言していますが、楢崎さんにとって川口さんと切磋琢磨した日々はどのようなものだったのでしょうか?

僕にとっては先輩でもありますし、中学・高校時代から全国レベルで活躍する有名な選手で、これまでの取材でも言っていますが、常に追いかける存在として捉えていました。憧れでもありましたし、そういう選手と同じ時代に代表やリーグで戦うことができ、僕も成長させてもらいました。彼がいなければ僕もこんなに長くプレーできなかったと思いますし「特別な存在」というのは僕にとってもで、歳下としてそんなことを言っていいのかわかりませんが、そういう存在でした。

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─次の世代を担うゴールキーパーに伝えたいことがあればお聞かせください。

ゴールキーパーは素晴らしい仕事ができるし、フォワードと同じ、試合を決めるワンゴール以上の仕事ができます。そのくらい美しいポジションですし、小さい子どもを含め、多くの方がゴールキーパーをやりたいと思うような土壌を日本でも作っていかなければいけない。いま、アジアカップで日本代表が闘っていますが、選ばれている選手は特に強い気持ちで、自分が日本のキーパーを引っ張っているという気持ちを常に持って。「日本のキーパーもやるじゃないか」と世界に思わせるようなプレーをしてほしいです。

─川島永嗣選手が、楢崎さんの意思を継ぎ扉を開き、それに続く人材に期待したいですね。

いまでも連絡取り合ったりしますし、僕がどれだけ川島選手に影響を与えられたのかはわかりませんが、少なくとも僕も影響を受けましたし、そういう関係はすごく大切です。永嗣は今までプレーし日本代表にもたらしてきたことはすごいものですし、それに僕が一役買っているなら嬉しいですね。

─もう一度生まれ変わってサッカーをやるなら、やっぱりゴールキーパーでしょうか?

サッカーをやるならゴールキーパーですね、大好きなので。

─引退発表時のコメントとして、これからは違った形でクラブや日本代表に貢献したいとありました。具体的にどのような活動をお考えでしょうか?

やめると決めてからまだそんなに時間がたっておらず具体的なことは決まっていません。クラブからもいろんな話をうかがい、これから決めていくこともあります。クラブの中でも携わりながら、クラブ、サッカー界の発展に貢献したいと思っていますが、これからゆっくり考えたいと思います。

─指導者への関心、興味はお持ちなのでしょうか?

いまのところ監督ということはイメージできませんが、日本のゴールキーパーをもう少し育てなければいけないという世間の声を耳にするのは辛いですし、自分もゴールキーパーが育つよう発展を手助けしたいという気持ちはあります。それでも、指導者という感覚はいまのところはありません。

─サッカーから完全に離れるということは考えず、一生、サッカーに関わっていきたいというお考えでしょうか?

僕はサッカーに育てられましたし、サッカーに恩返しをしようという気持ちが強くあります。なんらかの形でサッカー界の発展に貢献したいと考えています。

─これからのセカンドキャリアの中で、大切にしたい個性、人間性というものはどうお考えでしょうか?

自分のことを自分で評価するのは苦手ですが、いままでも謙虚にシンプルに生きてきたつもりです。これからもそれは変わらないし、そういう中で生きていくしかない、何かを変えることもありません。自分のことを信じていますので、このままでいいと思います。

─これまでの選手生活の中で、多くの指導者に出会ってきたと思いますが、全ての指導者への感謝の気持ちや、特に感謝していることがあればお聞かせください。

本当に多くの指導者に巡り会え、全ての指導が身についていますし、感謝しきれないです。もちろん、フリューゲルス、グランパス、日本代表での全ての指導者、監督やコーチ、そしてなによりも、自分の土台を築いてくださった、小中高校の先生にお礼を言いたいです。たまたま、僕が奈良県に住んでいるときに、ちょうど僕の世代から奈良県としてもサッカーに力を入れようと県のトレーニングセンターができ、その一期生となりました。そういうタイミング、全てで運が良かったのだと思いますが、成長を助けてくれた指導者の方に感謝の気持ちでいっぱいです。

─日本代表では四大会のワールドカップ、加茂監督からはじまり岡田監督、トルシエ監督、ジーコ監督、オシム監督、そして再び岡田監督と巡り会いました。日本代表の監督への思いという部分では、どのような気持ちでしょうか?

加茂さんに初めて呼んでいただき、志半ばで監督を解任されましたが、なんで僕を選んでくれたんだろうという気持ちで、本当にありがたかったです。岡田さんとはフランス、南アフリカで一緒に闘い、なかなか力になれなかったという気持ちで、感謝の気持ちに返す部分が釣り合っていないかと思います。トルシエさんは、はじめてワールドカップでプレーする機会を与えてくれました。人間的にはヒステリックであったり(笑)付き合うのは大変でしたが、自分のプレーの幅を広げるアグレッシブさを常に求められました。プレーの幅を広げる機会を与えていただき、そういう経験もあり長くプレーできたのだと思っています。ジーコさんは、細いことはあまり要求せず自分にすごく信頼を置いてくれた。普段からやっていること全てが代表チームのためになるというスタンスで、大きな信頼をいただき本当にありがたかったです。

─新しいシーズン、楢崎選手の姿がもうピッチにはありませんが、あらためて新しいグランパスへの期待、エールをお願いします。

もうシーズンが始まる直前まで、このような形で迷惑をかけているのではないかと申し訳ない気持ちですが、新しいチーム、雰囲気、そういうものを作って。チーム自体は継続して闘っているものですし、本当に強いグランパス、愛されるチームになることを期待していますし、応援しています。一緒に闘った仲間には頑張って欲しいです。

─これまで楢崎選手として、移籍する選手、引退する選手に対し自分は見送る側だといつも話されていました。ついに自分が見送られる側となりましたが、いまの気持ちをお聞かせください。

たまたまそういうことが続いていたというか。こういう世界なので、僕もいつどうなるかわからない、たまたま長くいられたからそういう結果になりました。見送るのは辛かったですし、特にクラブを離れる時に、このクラブに在籍して良かったと思って出ていく選手だけではなかった。それはこういう世界なので仕方ない、難しいことではりますが、愛したままで離れる、そういうクラブであって欲しいという願いはあります。自分はそういう気持ちでいられるので、本当に幸せだと思います。これが普通なのですが、見送るより、見送られる側の方が楽かなという思いですね(笑)。

─引退を決めてから発表まで、親しい人にしか連絡できなかったと話されましたが、最初は家族だったのではないでしょうか。その他にはどのような人たち決断を伝えられたのでしょうか?

やっぱり家族にはまず伝えました。決めたのはクリスマスくらい、オファー先に断りを伝え、その時点で自分の中で決めました。家族や奈良育英高校で教わった上間先生、あとは伊藤裕二さんにも伝えました。メーカーでお世話になった方や、ずっと僕の去就を気にしてくれていた同僚、寿人とかですかね。もう少しいたと思いますが(笑)。

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─まだやれるだろ?とか、お疲れ様でしたというような言葉が多かったかと思いますが、なにか意外な言葉はなかったのでしょうか?

意外な返答はありませんでした。悩んでいる時期でもコミュニケーションを取っている人がいましたし、特に寿人には苦しい時期を助けてもらった選手でした。この二年間、近くでプレーして「もっとやらなければだめだ」という言葉をもらいました。いろんな人の言葉がありましたが、やっぱり彼の言葉に葛藤もありましたし、彼に決断を伝える時は辛いものがありました。

─「理想に近づけないまま終わった」という言葉ありましたが、それでも数百試合のなかで、理想に近かった試合、プレーというものはあったのではないでしょうか?

それがないから、ずっと続けていたのだと思います。活躍できたなという試合はもちろん何試合かありますが、本当に満足した試合はありませんでした。強いて、そこで上げろと言われれば上げられますが、それでもそれが本当に自分のベストなのかと言えば多分そうじゃない、そう思いながら終わってしまいました。

─それでも、強いて上げてもらえますでしょうか(笑)?

自分の中でよく止めたなと思う試合は、日産スタジアムのこけら落としとなった横浜ダービーとなった試合でしたが、それでもそれがベストだったかはわかりません。

─この20年間の中で、海外でのプレーというものを考えられたことはあったのでしょうか?

自分がそういうところに挑戦したいという気持ちが強い時期もありました。その時なんで行かなかったのかと、今考えると思いますが、難しいポジションではありますし、タイミングや移籍の条件など、当時は難しかったので叶いませんでした。そういう経験も自分の中で積んでいればまた違うキャリアになったと思いますが、横浜、